あの日の話

うたうように話す。

「嫌な気持ち」との付き合い方

生きていれば嫌なこともある。

それは減らすことはできても無くすことはできないものだ。人と関わって生きてくこの世界では。

じゃあ誰とも関わらずに生きればいいと実践してみようとするに、数日でそんなことは不可能だと知る。神様は人間と孤独は共存できないようにしたらしい。

 

そうして考えるようになる。

どうすればこの「嫌な気持ち」とうまく付き合っていけるのか。

本能のままに怒りを発散したり、一日かけて涙を枯らしたりするような非生産的な日々とはおさらばしたい。

嫌な気持ちがまた次の嫌な気持ちを呼ぶような連鎖はつくりたくないのだ。

 

ある日、答えが降ってきた。

 

降ってきたのは本屋だった。

 

 

例えば誰かとの会話で嫌な思いをしたとする。

相手は私を不快にさせるつもりはなかった。でも私はすごく傷ついて、その人に仕返しすらしたくなるような衝動に襲われる。

次の瞬間、理性が働く。傷つけられたから傷つけるなんて発想は戦争と同じだ。もっと長い目で見ればこの相手には敬意もあるし感謝もしている。はず。

でもやっぱり今は、顔も見たくない気分だ。感情が抑えられそうにないから、逃げるようにその場を立ち去る。

歩きながら自問自答する。なんでこんな思いをしているのだろう?相手は私を不快にさせたことに気づいてもいない。私は我慢した。我慢したという不平等な事実にストレスが倍増している。このストレスはどう発散すればいいのだろう?

 

そうして、本屋に逃げ込む。

 

 

ここで最も重要なのは「気を逸らす」ことだ。一旦、自分の脳内を占め尽くしているその事柄を頭から引き剥がすのだ。無理だと思っても、無理やりやるのだ。

 

最初はとても、本なんて読む気分ではない。上の空だ。それでもいいから、入店して最初に目に止まった本を手に取り、開いてみる。最初の一ページを読み始めてみる。

途中で集中力が切れてまた元の世界に引き戻されそうになったら、次の本を探す。最初が旅行書だったなら次は文学にいってみようか。ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロの特設コーナーが設けられている。「私を離さないで」を最初に読んだときの衝撃はすごかったなあ。そんなふうに、脳が記憶と助け合って思考を始める。

雑誌コーナーに来てみたら、お気に入りの雑誌の特集内容が「映画とドーナツ」だった。これは、買わなくては、と半ば無意識に手に取る。買って隣のカフェで読もうかな。お会計をしている時、一抹の充足感が心に流れ込む。

 

こうして私は一度、怒りを忘れるのだ。

 

本屋は、元祖「未知との出会いの場」ではないか。未知の世界は無くならない。どれだけ熱心に勉強しても既知の範囲が未知の範囲を超えることはないのだ。そう思い知らされ、それがますます好奇心をくすぐる場。

 

ここでもうひとつ、かの偉人から一般人まで皆が大好きな場所を挙げる。自分の部屋だ。いわば天国。ただし怒りに震えているその時に限っては、地獄。

自分の部屋は既知の世界だ。誰しも、私の部屋に存在するもののことは私が一番知っているとあぐらをかいている。目を向けなくてもそこに何があるか答えられますよと。だから、心が怒りや悲しみに満たされているとき、自分の部屋にいては、それを増幅させることだけに全力を注いでしまう。他にやることがないのだ。暇人の地獄へようこそ、と書かれた看板がその辺にかかっている。

 

本屋はいわゆる灯台下暗しであって、解決策ではない。買った雑誌を読み終わったとき、ふとさっきの出来事を思い出してまたふつふつと負の感情が湧き出るかもしれない。

それでも少なからずその感情はマイルドにはなってるはずだ。また、一度気を逸らすことに成功した自分のことは目一杯褒めていい。

 

あの時あの場で、ナイフのような言葉を振りかざさなくて良かったと思えるはずだ。今度かの当人に会ったときは、寒いですねぇとかぼやきながら缶コーヒーでも奢りつつ、「この間言われたアレ、さすがに傷ついたんだぞ」って付き合いたてのあざと可愛い彼女みたいなテンションで言ってみよう。そうしよう。

そんな余裕の居場所を心に作ってあげられた自分に、拍手を送りつつ眠りにつこう。