あの日の話

うたうように話す。

この色とりどりの世の中で

この色とりどりの世の中で、

毎日誰かの人生が暗転している。

 

安全なはずの新幹線で若い命が突如絶たれた。「誰でもいいから殺したかった」なんて理由で。

50代の女性は孫の顔を見ることなく、90代の女性に轢き殺された。

ライブ会場で音楽を楽しんでいたら、突き抜けるような銃撃音と共にその場が戦場と化した。

 

こんなことが毎日毎日起きる。

テレビの画面を見て多くの人が「かわいそうに」という。

祈りを捧げる人がいる。

でも1週間後には別の事件が起きて、忘れられる。

 

 

不謹慎と言われればそれまでだけれど

私はよくその後の、残された人たちの日々を想像する。

今も何千万人という人が、モノクロの世界で闘っているのだろう。

そんなことを考えて時々どうしようもなくやるせなくなる。こんな世界、と思う。

 

 

今、愛している人がいる。

心からずっと一緒にいたいと思う。

すでに自分の半身になっているから、

いなくなったら半分身体がなくなることと一緒だ。

身体が半分になったら歩けない。

いなくなることは考えられない。

 

 

誰しもに大切な人がいる。

誰しもその人がいなくなることは考えられないと思ってる。

でも突然、逃れようもない理由でいなくなってしまったら、

暗転するしかない。

正直、「後を追いたい」と言っていても無責任に止められる気持ちじゃない。

 

 

運が悪かったなんて言葉では到底片付けられないのに

どうして自分の大切な人じゃなきゃいけなかったのかと

まるでルーレットみたいじゃないかって

毎日考えるだろう。

 

 

 

 

でも、多くの人は、時には十年二十年という歳月をかけて

少しずつ視界に色を取り戻していく。

足が1本しかなくても松葉杖で歩こうとする。

誰に強要されてるわけでもないのに、自然と前を向こうとする。

それがどんなに強いことか。

 

その人たちの心が、ずっと守られてほしい。

これから先の人生で、喜びって感情を思い出せる出来事が、うんとたくさん起きてほしい。

 

 

 

人が死ぬことと

残された人が生きることは表裏一体だ。

亡くなった人を思うのと同じくらい

残された人を思う気持ちがこの世の中に必要だ。

 

 

 

社会を変える力なんてない一般人のぼやきだけれど

そんな風に思ったんだ。

私は弱い

私は弱い人間だ。

 

 

少し前まで、弱い自分が嫌いだった。

弱い自分を否定して、人に暗い姿は見せず、いつでも明るく振舞って生きてきた。冗談を言うことが好きで、人と距離を詰めすぎることはたいてい苦手だった。泣く時は誰もいない場所で見られないように泣いた。

 

でも

音楽なのか何がきっかけなのか、正確には言えないけれど

いつからか弱い自分を受け入れた。

これが私なんだから、とふんぞり返るようになった。

そうしたら生きるのが楽になった。

とても楽になった。

 

 

しょうがないのだ。

親を失くすとかそういう経験は、思春期の自分には強烈すぎた。脆く傷つきやすく育ってしょうがないし、理解されなくてしょうがないし、一生そのままでしょうがないのだ。

 

 

そのぶん私は、人一倍敏感で、例えばこうやって言葉を紡ぐことが、誰かの心の琴線に触れたりすることもあるんじゃないかって

私だから感じ取れることが誰かを救えることもあるんじゃないかって

自信はないけれどこんな私だから出来ることを

探して歩き出した。

 

 

 

弱い私が好きだ。

 

 

 

優しさの箱

「おはよう。まだ起きないの?

 今雨が降り始めたよ。外出するなら傘忘れないでね。

 冷蔵庫の中に昨日の残りあるから、お昼に食べてな。腐っちゃうから。」

 

 

新しい録音、1件。

きょう 午前 9時52分。

 

「おはよ。もう会社行った?

 いつものドラマ、なんだっけあれ、録画してくるの忘れちゃった。

 ごめんけど、録っといて!」

 

 

新しい録音、1件。

きょう 午後 23時35分。

 

「もしもし?ごめん、終電逃しちゃった・・・

 課長が三軒目行こうって離さないんだもん。俺のせいじゃないよ・・

 始発を待って帰るよ。アイス買って行くから許してね?チョコミントの。」

 

 

 

 

 

新しい録音は、ありません。

 

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

 

「おかえり」

 

 

「やっと帰ってこれた・・疲れたあー。

 ねえ、最近全然電話出なくない?俺ちょっと悲しいんだけど。」

 

 

「ふふふ」

 

 

「何笑ってんだよ。絶対わざとだろ?」

 

 

「気付いちゃった」

 

 

「何が?」

 

 

「留守番電話って、優しさの箱みたい」

 

 

 

 

よく分からないと彼は笑う。

また明日も届けてくれる?

知らないよと彼は、もう一度笑う。

 

壊れた花瓶と新しい花瓶

壊れた花瓶を必死に直すより、新しい花瓶を手に入れた方が良い。

 

長年大事にしてきたお気に入りの花瓶が壊れてしまったと、ある女性が泣いている。

また新しいものを買えば良いじゃない。

友人にそう慰められると、かえって女性は怒ってしまった。

 

この花瓶じゃなきゃダメなの。この花瓶のなめらかな曲線と、質感。乳白色のベースに、鮮やかな青に金箔が散らされた模様。こんな素敵な花瓶は他にはないでしょう。私は何年もこの花瓶だけに色んな花を生けてきた。春夏秋冬をともにした、私の生活の一部なのよ。

あなたには分からない。あなたには。

 

友人は答えた。

うん、分からない。

でも、その花瓶じゃなきゃだめだというのは、事実じゃなくてあなたの妄想だ。他の花瓶に出会うことすら拒否しながら、そんなこと言ってるんだからね。

あなたは今、不幸だ。毎日飽きもせず壊れた花瓶のかけらを集めて泣いている。世界中の技術を駆使すればこの花瓶を直せるかもしれないと一縷の望みに身を寄せているんだろう?でもそれは果たしていつのことになるんだろう。先の見えない不安にかえって涙が押し寄せている。

 

他の花瓶にしたって「やっぱりあの花瓶がよかつた」と後悔することを恐れているんだね。でもそれは案外簡単に解決できるんだよ。後悔しなければ良いだけのことだ。壊れた花瓶を元どおりにすることより、後悔しないことのほうがずっと簡単だよ。長年愛したその花瓶のことも、最初は何も知らなかった。0からのスタートだったでしょう?同じことをまた始める、ただそれだけのこと。そこに少しの強さがあればいい。

 

あなたは今、不幸だ。今に目を背けたまま、望んだ未来はきやしない。

みんな心配しているよ。みんなあなたには笑っていてほしいから。

 

 

 

数日後、女性の家に新しい花瓶がやってきた。

新しい花瓶の隣には、ボンドで無理やりくっついた壊れた花瓶が置いてある。

 

まだ捨てる勇気はなくて。

 

でも、新しい花瓶も、綺麗だね。

 

 

女性はそう言うと、柔らかく微笑んだ。

 

「嫌な気持ち」との付き合い方

生きていれば嫌なこともある。

それは減らすことはできても無くすことはできないものだ。人と関わって生きてくこの世界では。

じゃあ誰とも関わらずに生きればいいと実践してみようとするに、数日でそんなことは不可能だと知る。神様は人間と孤独は共存できないようにしたらしい。

 

そうして考えるようになる。

どうすればこの「嫌な気持ち」とうまく付き合っていけるのか。

本能のままに怒りを発散したり、一日かけて涙を枯らしたりするような非生産的な日々とはおさらばしたい。

嫌な気持ちがまた次の嫌な気持ちを呼ぶような連鎖はつくりたくないのだ。

 

ある日、答えが降ってきた。

 

降ってきたのは本屋だった。

 

 

例えば誰かとの会話で嫌な思いをしたとする。

相手は私を不快にさせるつもりはなかった。でも私はすごく傷ついて、その人に仕返しすらしたくなるような衝動に襲われる。

次の瞬間、理性が働く。傷つけられたから傷つけるなんて発想は戦争と同じだ。もっと長い目で見ればこの相手には敬意もあるし感謝もしている。はず。

でもやっぱり今は、顔も見たくない気分だ。感情が抑えられそうにないから、逃げるようにその場を立ち去る。

歩きながら自問自答する。なんでこんな思いをしているのだろう?相手は私を不快にさせたことに気づいてもいない。私は我慢した。我慢したという不平等な事実にストレスが倍増している。このストレスはどう発散すればいいのだろう?

 

そうして、本屋に逃げ込む。

 

 

ここで最も重要なのは「気を逸らす」ことだ。一旦、自分の脳内を占め尽くしているその事柄を頭から引き剥がすのだ。無理だと思っても、無理やりやるのだ。

 

最初はとても、本なんて読む気分ではない。上の空だ。それでもいいから、入店して最初に目に止まった本を手に取り、開いてみる。最初の一ページを読み始めてみる。

途中で集中力が切れてまた元の世界に引き戻されそうになったら、次の本を探す。最初が旅行書だったなら次は文学にいってみようか。ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロの特設コーナーが設けられている。「私を離さないで」を最初に読んだときの衝撃はすごかったなあ。そんなふうに、脳が記憶と助け合って思考を始める。

雑誌コーナーに来てみたら、お気に入りの雑誌の特集内容が「映画とドーナツ」だった。これは、買わなくては、と半ば無意識に手に取る。買って隣のカフェで読もうかな。お会計をしている時、一抹の充足感が心に流れ込む。

 

こうして私は一度、怒りを忘れるのだ。

 

本屋は、元祖「未知との出会いの場」ではないか。未知の世界は無くならない。どれだけ熱心に勉強しても既知の範囲が未知の範囲を超えることはないのだ。そう思い知らされ、それがますます好奇心をくすぐる場。

 

ここでもうひとつ、かの偉人から一般人まで皆が大好きな場所を挙げる。自分の部屋だ。いわば天国。ただし怒りに震えているその時に限っては、地獄。

自分の部屋は既知の世界だ。誰しも、私の部屋に存在するもののことは私が一番知っているとあぐらをかいている。目を向けなくてもそこに何があるか答えられますよと。だから、心が怒りや悲しみに満たされているとき、自分の部屋にいては、それを増幅させることだけに全力を注いでしまう。他にやることがないのだ。暇人の地獄へようこそ、と書かれた看板がその辺にかかっている。

 

本屋はいわゆる灯台下暗しであって、解決策ではない。買った雑誌を読み終わったとき、ふとさっきの出来事を思い出してまたふつふつと負の感情が湧き出るかもしれない。

それでも少なからずその感情はマイルドにはなってるはずだ。また、一度気を逸らすことに成功した自分のことは目一杯褒めていい。

 

あの時あの場で、ナイフのような言葉を振りかざさなくて良かったと思えるはずだ。今度かの当人に会ったときは、寒いですねぇとかぼやきながら缶コーヒーでも奢りつつ、「この間言われたアレ、さすがに傷ついたんだぞ」って付き合いたてのあざと可愛い彼女みたいなテンションで言ってみよう。そうしよう。

そんな余裕の居場所を心に作ってあげられた自分に、拍手を送りつつ眠りにつこう。

 

暦にたすけられる、という感覚を知った時があった。

 

 

1年365日。

◯月◯日、それはある人にとってはただの数字の羅列で、

ある人にとっては去年と違わぬ平穏に感謝する日で、

ある人にとってはまたひとまわり大きくなった我が子の手を握りしめる日で、

ある人にとっては、海の向こうに祈りを捧げる日だった。

 

 

忘れたくないことも、忘れたかったことも

必ず思い出す日。

 

 

暦がなければ、私たちは記憶を暑い砂漠の上に落として、そのまま前に突き進んで、冬になれば雪が覆って見えなくなって、やがてそれが何だったのかも分からなくなっただろう。

分からなくなりかけてから知るのだ。それがどんなにこわいことか。

 

 

暦がいつも、落とした記憶の居場所を知らせて、拾いに行かせた。

 

 

拾いに行くことで、

何度も何度も懲りずに拾いに行くことで、

喜びは愛情に、

痛みは強さに、

過去が永遠に、変わってゆく。

 

 

そうやって生きてきたし、生きてこられた。

今年もまた。来年も、また。

 

 

縁がなかった

そういう運命だった

 

っていう言葉には時々救われることがある。

偶然と必然の話。

すべて必然なんだと信じこむこと。

 

あの時あんなこと言わなければ

あの時こうしていたら

そういう後悔は、残りの人生まで曇らせてしまう。

 

最初から全部決められてたことなんだと思うと

すとんと腑に落ちてくる瞬間がある。

 

難しいかもしれないけど

強く生きるためのおまじないだ。